活動報告 3.11追悼シンポジウム『原発の町を追われて・十年』

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2022.03.15

3.11追悼シンポジウム『原発の町を追われて・十年』報告

公益社団法人日本ジャーナリスト協会では、発災から今年で11年目を迎えた東日本大震災を追悼して、3月14日(日)16:00~代々木・LIVE STUDIO LODGEにてシンポジウムを開催した。

第一部では、世界初の”原発避難者“となった福島県双葉町の人々の10年目の姿を記録したドキュメンタリー作品『原発の町を追われて・十年』(2021年)が上映された。

五輪を足がかりとした復興が進む一方、“30年は人が住むことができない”として、今もなお住民が存在しない双葉町。この現実をどう受け止めるべきか、ある日突然故郷を失った喪失感を抱えたまま、それでもなお前を見据えて生きていこうとする町民たちの思いは複雑だ。

上映後、本作を監督した堀切さとみ氏、双葉町出身者・鵜沼久江氏、福島県浪江町で被ばく牛の世話をする「希望の牧場」にボランティアとして携わった経験を持つ映像ジャーナリスト・針谷勉氏によるトークショーが行われた。

震災から11年経った今、現在の町民たちの正直な心境と双葉町の状況とは。

最初に司会の片田直久氏より、それぞれの登壇者に震災から11年経った今年の3月11日をどのような思いで過ごしたのかと問われると、鵜沼氏は「今日をどう過ごすかよりも、明日はどうなるのか?その不安を抱えて過ごした11年間でした」と苦しい胸のうちを明かした。

双葉町で暮らしていた当時は牛飼いを生業としていた鵜沼氏だが、原発事故が起きたことで牧場を手放さざるを得なくなり、現在は避難先で農業を営んでいるという。

「8月25日、初めて一時帰宅をした時に飼っていた牛が死んでいる姿を目の当たりにして、今後のことを考えて全く未経験だった農業を始めることにしました。それでも、11年経った今でも牛との暮らしを諦めることはできないし、まさかこんなに長いあいだ農業を続けることになるとは思ってもいませんでした」と複雑な心境を語った。

針谷氏からは、当時撮影した写真データなどをもとに詳しい状況の説明があった。

コンビニや銀行に設置されたATM、自販機などから現金が奪われた形跡は街中で確認できたが、それと同じように、管理者がいなくなった牧場から逃げ出した牛は“動く瓦礫”と呼ばれ、死体はブルーシートを被せられたまま放置されていたという。

希望の牧場では、殺処分を免れた被ばく牛を預かっていることから具体的に放射能によってどのような影響があるのか国に調査を依頼したが、実際に検査にあたったのは放射能の専門ではない農研機構だった。白斑などの目に見える症状に対しても“原因は特定できない”とされ、独自で調べるほか調査を続けることはできなかったという。

また、震災後直後の混乱によって餌の搬入が間に合わず、現地まで往診に来てもらえる獣医を探すことにも難航し、200〜250匹の牛が犠牲となったが、行政の要請に応じる以外選択の余地がなかった近隣の同業者からは「見ていると辛い気持ちになるから、一日でも早く殺処分してほしい」と言われることも少なくなかったと話す。

堀切氏は「双葉町の人々は間違いなく被害者であるのに、あらゆる側面でまるで加害者のように扱われてきました。被ばくしているから要らない、邪魔だという国側の見解は理不尽だと思う。現在、原発との因果関係が疑われている甲状腺がんの若者6人が東電に対して訴訟を起こしているのですが、医者に“被曝によるものではない”とされて、精神的なショックを受けている人も少なくはありません」と当事者の精神的負担についても言及した。

早くて2022年6月以降に復興拠点の避難指示の解除が予定されているという双葉町。

「もし叶うのであれば町民を一気に町に戻してほしい。避難生活によって様々な分断が生まれ、現在も県内に避難した人、県外に避難した人の間ではわだかまりが生じています。中途半端な避難指示解除はまた新たな分断を生み出すことに繋がるのでは」と、不安を打ち明けた鵜沼さんは最近、双葉町を案内する活動を始めたところだという。

シンポジウムはそれぞれの立場や視点から「言葉だけでは伝えきれない思いがあるからこそ、実際に足を運んで、自身の目で見て事実を確認してほしい」というコメントで締め括られた。

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